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ネット社会における「忘れられる権利」:EU司法裁判所

2014年05月14日 ネズミ1号:略称「T」
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ITが切り崩す格差是正と個人の公化に関するバランスについて考えてみた

Reuter:欧州連合司法裁判所は、個人名で検索した際に過去に報道された記事が表示されることが不当だというスペイン人男性の訴えに対しその訴えを認め、不適切だと認めらえる特定条件下においては、個人情報に関するリンクを削除するよう命じたそうです。現在ITの世界では、こうした報道による個人に関連した情報のみならず、さまざなサービスを使うことで取得されてるデータにより間接的に個人に関する情報などが意図せずアーカイブ化されてしまうのではという不安があおられたり、過度の批判起きたり議論されているようですが、ネットワーク化が進み、技術が進化する過程で、実は生物としての人類も社会形態などもそれに順応もしくは対応できるような意識の摺り合わせが必要なのかもしれません。


 

 

基本無料で使えるインターネットと言論の自由
ネットがなくした情報格差によりもはや一般人も公人と同じに..

一昔前までは、多くの人が知るに至るような情報やニュースなどはそれなりのセレブリティか著名人でないと報道されたり、記事にされたり、またはデータベースや市区層町村の帳簿をみて事細かに過去の履歴などまで把握することはできなかったと思います。無料で使える(もちろんプロバイダー代やら通信費はかかりますが)各種サービスは今まで存在しなかったより便利で、タイムリーで簡単なモノ・事を実現することを一つのバリュエーションとして発展してきたといえるでしょう。しかしそれも行き過ぎると弊害もでて、今回のニュースのように、グーグルの主張する言論の自由といった論理と、過去の解決した事件が今だに個人名で検索して公にさらされているという個人の履歴、今回のケースでは新聞で報じられた紙面がアーカイブされ検索できる状態にあったようですが、このような議論がなされるようになっているのだと思います。しかしここで思い出してみると、昔はセレブとか有名人しかこうしたことを味わうことは無かったわけです。例えば、映画スターや芸能人などはパパラッチや日本でいうフライデーみたいなすっぱ抜きメディアに追い回され、プライバシーも減ったくれもなかったわけです。政治家、議員、教育者もしかりで、ある意味社会的な地位を得た人はそれなりに公人としての資格を持っていたわけです。つまりネットで自由に情報を得たり、あることを無料で実現できたりある意味利益を享受する前提であれば、もはやそういうサービスや道具を使う事で、自分自身にもある一定の責任が生まれるのだという自覚をもつということですえね。

今回EUの裁判所で下された「過去を忘れることができる権利」というのは聞こえはいいですが、例えば一度罪を犯してしまった件について、被害者はそれを忘れてもいいという感情になれるでしょうか?今回ケースはスペイン人男性が自宅担保を差し押えられた記事のようで、もう解決した件なので不当だとしているようですが、少なくとも当時担保を差し押さえるまでに追いつめられたしまった自身の失策があったことは事実です。

広まるネットワーク化社会。個人にどこまでもとめるべきか?

企業などに勤めていて、たまに大手メディアや中小メディアなどから取材を受けることがありますが、メディアは実はあまり中立という感じではなく、取材者の個人のバイアスがやはりかかっているなと感じることが多いです。視聴者や読者がみたいものを提供する訳ですから、見出しも事実を誇張し「おやっ」と思わせるうようなネタを記事にしたいわけですね。ですから、文脈の捉え方、結び方などある意味その記者や編集派の構図ありきの表現のされかた多いですね。当然レガシーメディアは双方の取材をし裏とりした上でという前提ですが、最近のネット系のメディアなどはジャーナリズムとは程遠いスキルの単なるきれいな原稿がかけるというレベルの方も多いように思います。もっぱらIT系の記者という人は、コンベンションに出たりして見たり聞いたりしたことを伝聞調で作文ばかりしている人が多く、そうした人がジャーナリズムなレベルの取材・記事構成が求められる企業案件などの取材の様子をみていると「この人はゲストブロガーレベル?」ただ単にちょっとかじった知識があるだけで、こんな記事にするの?みたいなことが往々にして多いように思うこの頃です。

ネットワーク化が進み、昔のように個人が公人と等しい環境にさらされるようなまでに技術革新は進み、逆にメディアも素人さんがSNSやBlogをやる感覚で瞬時に記事化してしまう。誤報があったとしても玉虫色みたいな感じに..あとはSNS上やらTW上やらで責任のない、自分は責任を負わないようなタイムラインに事を任せるというような風潮ですね。

「衆愚」という言葉は古代ギリシャの時代からありますが、技術が発展し、コンピューティングが自然な日常へ普及する中で、実はそれを使う我々自身がリテラシーの向上だけでなく、論者、識者、市民として次なるサイバー社会にふさわしいリテラシーと公人としてのわきまえなんかを持つべきフェーズにきていると言えるかもしれません。

EUの判例により、今後Googleなどは特に欧州などで適当な「削除してよ!」という問い合わせに多大なる工数をかけて対応することになるかが見ものですが、こうしたことは大手Googleだけのことに限ったことでなく、自分が働いている企業などでも起こりうることだ考えてみるといろいろ見えてくることがあるかもしれません。しかし、個人に公人と同じ意識をというのも急には無理があるのも事実。とはいいつつあまり各人が自分の権利ばかり主張しても、世の中は発展せず、退行化へ向かいそうな気もしますし、こうした議論はあと10年はつづくのでしょうね。10年すると現在の最先端が当たり前の世代が社会のコアを担うようになるわけですので、その時がどういう社会になっているのか今から想像してみるとビジネスヒントが見えてくるかもしれません。



2014年05月14日 ネズミ1号:略称「T」
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